2019年01月18日
猫の看取り

今年のお正月は、もともと旦那さんのお友達で、20年以上お付き合いのあるYさんの家で過ごしました。
公園で拾って、以来15年一緒に暮らしてきた猫のよろぞうが老衰してご飯も食べない、トイレにも行けなくなってる、逝きそうだから今年のお正月は外に出れそうにない、と聞いたのは12月の半ば。
じゃあ泊まりに行く!と沖縄から子どもたちとYさんちに押しかけたのは大晦日の夕方でした。
よろちゃんはトイレにも行けない状態で。低いソファとその前に置かれたちゃぶ台の周囲を渾身の力を振り絞って行ったり来たり。
腰が抜けてて、力が入らないのが傍目にもよくわかる。
倒れないように一生懸命四肢に力を入れ、踏ん張ってハァーハァーと息をついていました。
猫マッサージは得意で、どんな猫でもトロンとさせちゃう自信はあります。
さっそくよろちゃんをそっと撫でてあげました。
気持ちよさそうにホッとしてる感じ。
首の下を触ると、そっと頭をあずけてきます。
頭を持ち上げる力も、もうほとんどないのだ、と気づいて。がんばってるな、よろちゃん、、
って。
余裕のない、朝も昼も夜もない、自身のからだと向き合い続けているよろちゃんの時間に、母子家庭3人暮らしのYさん一家が寄り添い、そこに、やはり、沖縄から母子家庭3人暮らしの私たち一家が加わって。
大晦日の夜。
Sくん(旦那さん)がよく鳥の水炊き作ってくれたの思い出して、とわざわざ用意していてくれた鶏鍋と、ついついお正月ムードの商店街で買ってもうたわ、というごちそうの蒸し豚。それにキムチなんかを食べながら、よろちゃんの一生懸命な呼吸を感じながら。
あ、そう言えば紅白…
って言ったのは誰だったかな。
テレビをつけると氷川きよしがすごい格好で歌ってた。
氷川きよしは王子さまだね、及川光博と立ち位置似てるね、なんて。テキトーなこと言って。
その間もよろちゃんはずーっとがんばってた。
息することに。
体を崩れないように保つことに。
プルプルふるえながら。
私はよろぞうのそばで寝るから、というYさんを残して子どもたちと二階に寝に上がったのは日が変わった夜の12時過ぎ。
翌朝起きて階下に降りてみると、よろちゃんはもう、形を保つこともままならず、倒れていた。
だけどまだ生きていた。
頑張ることをやめて、ただ息してるみたい。ゆっくりな呼吸に変わっていた。
時々頭を持ち上げてはクタっと、近くにいる人に首を預けてくる。
白内障でよく見えない目でどこかをじっと見ている。
もうお迎えきてるんよ。
入れ替わり立ち代わり。
私、そろそろ逝くよ。
そんな感じ。
ソファで横たわっているよろちゃんの横で、手を伸ばすとそっと寄り添ってくる、頭を預けてくる。なんとなく、寂しがっているような様子を感じながら、
よろちゃんなりの、この世への未練を思ってグッときました。
Yさんが、
(なんか死ぬときって、出産に似てるね)
って。
吸って吐いて、吸って吐いて。を、周りが見守ってるこの感じが、出産の時の周囲と自分の状況に似てるね、って。
二人の子どもを産んだ経験のあるわたしたち。。
ほんとだ〜
って可笑しかった。
この世に生まれるときと、この世からあの世に行く時が似てる、ということ。
遅い朝ごはんは、昨日の鶏鍋のおつゆに白だしを入れて三つ葉を散らしたお雑煮。
元旦の朝。おとそと一緒に。
おいしかったな。
びっくりしたのは昼前にYさんが
私ちょっと(お年玉用に)お金おろしてくるね、
と出ようとしたときのこと。
私の横で、ソファで倒れていたよろぞうがだだっとソファをかけ降りて、Yさんを追いかけて。
だけど、15センチほどの低いソファを落ちるように降りて、そのまま力尽きて倒れ込んでしまって。
お母ちゃん!
行かんといて!!
私もうすぐ逝くから!!!
って…。
嫌が応にもよろぞうの強い意志を感じて、もう動けないよろぞうの体を動かした強い意志の力。けなげな、生き物のいのちを感じて、なんか突然涙があふれて、止まりませんでした。
そのあと、私と子どもたちの3人は午後2時過ぎにYさんちを出て親戚が集まるという実家に帰り、よろぞうが、息を引き取ったとの知らせを聞いたのは午後4時過ぎ。
最期に、長く食事もとれてなかった体だったけどうんちとおしっこをして、ガクガクガクっと痙攣したあと、その勢いで息を吸って、そのまま亡くなった、とYさんに聞きました。
なんて立派な。
最期だったんだろう、と。
なんて自然な、
最期だったんだろう、と。
そんなよろぞうの最期のひと時を、一緒に過ごせて、本当に本当に幸せでした。
私は毎年、大晦日から元旦にかけては地球上のみんなが新年、という思いを抱いているからか、普段とは違う、別の時間が流れてるみたいだな、と思っていました。
多くの人がどんな状況にあっても心を一つにしている時間。まるで止まっているような。時空を超えて全てのお正月がつながってるみたい。1人でも。たくさんでも。普段と変わらないように見えても。働いてても。
そんな、特別なときに、よろぞうという毛玉ちゃんがあの世に行くのをそばで見守れたということ。
今年はなんとなく私の新しいスタートになりそうな気がします。
死に方を教えてくれたよろちゃんに、やっぱり、最後までがんばって生きるだけ、って、生き方も教わったのだ、と、思います。
お葬式もね、参加してる大人全員が(てか子どもの方が多かったけど)、自分もこんな風に見送ってほしい、って思わず言い合うくらい、夢のようないいお葬式でしたが、そのお話はまた今度。
猫の看取りの、お話でした。
あの毛玉ちゃんのあの温もりをまだ感じながら


Posted by そうや晶 at 21:56│Comments(0)
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