週一ペースでだいたい1人でランチしに行くお店。
パスタカフェのりーちぇ。
歩いて行ける距離なので、なんか時間があったら1人ぶらっと。
美味しいパスタをいただきに。
と、ベランダから見える浜の表情が本当にいつも美しくて。
ちょっと1人で考え事がしたいな、っていう時に、とてもありがたい場所です。
今日は前日に漢方講座の復習会があったのでその頭の整理をしたかったのと、久しぶりに店主の典子さんの顔が見たくて。
季節のパスタでイカスミがあって迷わず注文。
ちょうど漢方の勉強で血虚にいいと聞いたばかり。
それでなくてもイカスミ汁大好き。
たまたま他にお客さんがいない中、お互いの近況報告をぽつぽつとしあって。
その中で典子さんが一週間前、昨年末に亡くなったお母さんの声を聞いた、と。
風邪気味でうとうとしてる時に耳元で自分の名前をささやかれて起こされた、と。
亡くなってからそのような、お母さんの存在を身近に感じるようなことは初めてで、懐かしく、改めて恋しくなったよと言う話をして。。。
その時にね、
私がすぐに思い出したのは、旦那さんの三回忌前、かなあ。
渡久地ビーチで海を見ていたときのこと。
私には、10年ほど前に沖縄に移住して来てから海やら川やら山やら、ま、いくつかの大好きな場所があって。
そこに行くとまるで時間がなくなったみたいにリラックスできる場所があり、その一つが渡久地ビーチから浜を見るある地点で。
1人、20年みっちりと一緒にいた旦那さんを亡くした喪失感に囚われている、というよりは常に喪失感を抱えているという状態で、久しぶりの海を見ていた時。
いつものように時間がなくなるような感覚になってしばらくしたらふと、
私がここで1人海を見ていた過去と、今がピタッと重なってる、と思った、感じた。
と同時に、彼の存在をリアルに感じた。
今、私はここで1人海を見ているが彼は家にいるんだよね、と。
過去に何度もあったそのような状況。
私は1人空き時間に海を見に家を出て旦那さんは家にいる、という状況。
その過去に何度も過ごした時間と(今)がピッタリ重なって、それで何故か、
彼は亡くなってるんだけど、
今、家にいる、と。
その時確信したんですね、彼の存在を。
別に私を待ってるとかそんなじゃない。彼は確かに今いる、存在してるということをリアルに。
喪失感を小脇に抱えながら日々を過ごす自分に、その、その時感じた彼の存在感は衝撃でした。
何も失くしていない。
この瞬間彼はいる!今!家に!
と。。
その話を、典子さんにしてみた。
話しながら、彼が亡くなった直後、
「今ここ」に、過去の全てと未来の全てがぐわーっと向かっているような感覚に襲われたことを思い出しながら。
自分とは何か。
大きな球があって、その中心が自分の今、ここ。
その球の中に、過去の全てと未来の全てが詰まってる。全てが中心に向かってる。
その、大きな球そのものが私。
とすれば(私)とは、私の体の外にあるもの全てでもあり、それを宇宙というのであればイメージとしての私は過去も未来も含めての世界の全て。
もちろん私の存在がその大きな球であるように、誰しも。典子さんもそうで。亡くなった旦那さんも亡くなってもそうで。
そしてあなたもそうで。
そんないのちのイメージ。
それはいいんだけどさー
とても身近にいて亡くなった人は、悪いことなーんも思い出さないもんだな、って。しみじみと思うねー
いいことしか思い出さない(๑˃̵ᴗ˂̵)
喧嘩したり、(は?サイテーッこの人!)みたいなこといっぱいあったけど、何故かリアルには全く思い出さないんだよな〜♫
傷つけ合ったそのときの自分の悲しい感情というのはリアルに思い出せても、そのときの私から見えてた旦那さんのやな感じ、醜い感じ、っていうのはさ。全くリアルじゃないの!!
亡くなったらその人の存在のいいとこどり︎(๑˃̵ᴗ˂̵)
なんて……。
じゃあさ、考えてみたら今、毎日何かしら他人にわじわじしてるあれやこれやってば、みーんな、生きてる証だね!!
予測不能な未来にワクワクする希望を常に伴うんだ。
この、
あいつ!!むっかつく〜!
のアレヤコレヤは…
って。
そんなふうに発想が飛んで
二人で笑って。
お会計。900円。
沖縄本島の西海岸の真ん中、瀬名波から長浜。少々湾になった浜も手伝ってくれて、リラックスできる、時空を超えて妄想膨らむ、、ステキな場所です。。
是非ど〜うぞ♫
http://www.yomitan-kankou.jp/detail.jsp?id=74467&menuid=11952&funcid=3
イカスミパスタだけじゃなくてね、トマトソースもペペロンチーノもおいしいし。
うちの子どもたちはカルボナーラをいつも頼むんですがおいしいの。
コーヒーもスイーツも美味しいのがありがたくて。
近所のお店自慢全開!
でした。。