水槽に近くの川でつかまえたカニや魚を飼っています。
その中で一匹ひらひらと泳ぐ小さな魚がいて一人、気に入っていました。
調べてみるとグッピーではないか、ということで、仲間を連れてきてあげようとグッピーがたくさんいるというこれまた近くの別の川でたくさんグッピーをつかまえていれてみました。
ところが、よく見るとグッピーとは微妙に違っているのです。
も、も、もしや!?
あの絶滅が危惧されているという琉球メダカでは!!?
と色めき立ちよくよくネットで調べると。。。
「カダヤシ」
という魚であることがわかったのです。
しかもこのカダヤシは、
日本の「
侵略的外来生物」に指定されており、在来種の居場所を奪う恐れがあり飼うことも一度捕まえたものを放すことも禁止されている、とのことでした。
琉球メダカどころか、そのようなものであったとは。
このとき、
私の頭に自然と浮かんだコトバ。
(残念)
そうなんです、わたし、このときはじめて「残念」という、巷で最近よく使われているコトバをそのような意味で使うことができたのでした。
(残念な人とか、残念とかよく聞くけど、イマイチわかんないなあ~~)
と長らく気持ち悪く思っていたので、うれしかったです・・・。
「残念」とは、絶滅危惧種のメダカかと色めき立った後、どころか侵略的外来生物とわかった後に訪れる気もち。
話を戻しますが、しかしこの北アメリカ原産というカダヤシ、好き好んでこちらに来たわけではもちろんなく、1916年に蚊のこども、ボウフラを食べてくれるということで台湾経由で内地に持ち込まれ、その後全国に分布したとのこと。
ハブをやっつけてくれると持ち込まれたマングースに似ています。
それにそのような名前が付いたからといってやっぱりカダヤシは私にとっては魅力的です。
沖縄の野生グッピーは黄色っぽいんだけど、カダヤシは黒っぽくてシャープなかんじ。
目も白の中に黒がきらり。
カッコいい。
水槽をながめていました。
右へ、左へ、泳ぐカダヤシを。
ふと、思いました。
(待てよ、この沖縄にいる「やまとんちゅ」のわたしも侵略的外来生物みたいなものでは?)
この明らかにのっぺりした弥生顔。
そういえば、いかにもうちなんちゅ顔のおばさんが、
自分たちなかまうちで「私たち絶滅危惧種だよね~」って笑ってるって言ってたな、と思い出しました。
うむむむ。。。
ということはうちなんちゅが琉球メダカ。内地の人間がカダヤシだとすると、グッピーはアメリカ人か。。。
まあしかし、ね、
とも思いました。
もうちょっと俯瞰してみれば、文明を持った「人間」そのものが地球上のあらゆる生物にとっての侵略的外来生物だわな、と。
いやもちろん、なぐさめにはなりません。
とにかく侵略的外来生物としての私という認識も含め、一貫して残念な気持ち、です。
身近な自然観察というのはほとんど、
(ああ、昔はもっともっと豊かで多彩な世界が拡がってたんだなあ)
という気づきに行きつきます。きっとどこにいても。
その、「いま」とは違うもっともっと豊かな世界の片鱗をたくさん見つける作業になるからです。
だけど、と同時に、いま目の前にある植物、動物のそのリアルにやっぱり立ち止まって、
その、いのちの、ありのままに、たぶん、自分のいのちのありのままが共鳴するんでしょうねえ。
なんて豊かなんだろうって。
やっぱり思わされます。
それが、「残念」を超える、希望、みたいなもんかな、と思います。
うちの家にいたカダヤシは先日手長エビに食べられました。
これで法律違反により罰せられることもない、とちょっとホッとした、やっぱりどこか残念な私です
写真は最近脱皮して新しく生まれ変わりホッとしてるもくずがにです