東京へ義父のお葬式へ行ってきました。
義母曰くいくつかの「老人病」を持ちながら、最後二か月前に入院する直前までトイレもお風呂もお食事も、自分一人で身の回りのことをすましていた義父でした。
私自身数回お会いしたくらいでゆっくりお話ししたことはなくて、ここ数年は「病気もちのおじいちゃんとなってる義父」というくらいの認識だったけど、お葬式に行って義父の、仏様のような安らかな死に顔を見て、
参列されてるご親戚の方がたに会ったりしていると・・・、不思議なもんですね。
何か、義父の生まれた時から老いて往くまでの人生の全体が迫ってくるようでした。
何も知らないくせに、義父の少年時代、義母との恋愛結婚、なんかそういうあれやこれやが、義父が亡くなったことによって、義父の存在全体がダイレクトに感じられるような不思議な感じ。
そしてまた、義父の兄弟の方が「順番で行くと次はオレなんだよなあ・・」なんてやれやれ顔でしんみり言われてるのを聞くと、
(そっか。お葬式ってみんな、特に高齢の人だといつか誰でも往く道だから、自分の番はいつかな?とか考えながら参加してんだろうな)
と考えたり。
ほかにも喪主である義母のあいさつで、「無邪気な人でした」なる話があり、義母のほうが少し年上なので、シティボーイでやんちゃなところのある義父を暖かい目で支えてこられたんだろうなあ、とか。
無邪気なところ、うちのだんなさんにしっかり受け継がれてるなあ、とかいろいろと感じました。
10年ほど前、いくつか身近な方の死が重なることがあり、中でも兄のように慕っていた叔父の突然の死にショックを受けました。
(このままいくと今後どれだけのお葬式に出ないといけないんだろう!?)なんて親戚の顔を思い浮かべたり、(もう誰にも死んでもらいたくない、いやだいやだ)なんて思ったりしました。
それ以来、自分なりに折に触れ死について考えてきたような気がします。
命あるもの誰でも死ぬし、その死はいつ来るかもわからない、ということを。
そして今年、私も40歳になり、やっとこさ死の前にある「老い」をはじめて自分事として感じはじめました。
「老いる」ってあたりまえに知ってることだけど、子どものころはおばあちゃんやおじいちゃんに若い頃があったなんて想像もできなかったし、また20、30代の頃でも「老ける」ってことに全くピンときてなかった。
最近になってありありと自分のシミしわやお肌のたるみを感じるようになり、(自分もこのまま順調に行くとおばあちゃんになるんだ!)と発見したというか気付いたという次第、なんですね。
全く自分が経験してしか気付けないなんて情けないことだけど。
老いて死ぬ(順調に行けばだけど)ってことがあたりまえのこととして了解されてきたこの頃。
そういう近頃があったうえで起こった義父の死でした。
久しぶりのお葬式だったけど、お葬式も悪くないな、と。いいもんだな、と。
そうやってみんなでまるで自分の死の準備をするみたいに身近な人の死を悼み集まる。いいもんだな、って思いました。
後片付けや用事のため数日遅く帰っただんなさんと娘が、「どんぐり拾ってきた~!」とまるまると太ったどんぐりをおみやげにくれました。
死は、熟れた実が木から落ちるようなもの、と書いたのは谷川俊太郎さんでした。
その実はまた新しいいのちとなり、芽吹くのを待つ、というわけ、なんだね。
お義父さん、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。